時々会う小さなともだちが、メロディーも歌詞も、とっても素敵な歌を教えてくれた。
庭のシャベルが 一日濡れて
雨があがって くしゃみをひとつ
雲が流れて 光がさして
見上げてみれば ららら
虹が虹が 空にかかって
君の君の 気分も晴れて
きっと明日は いい天気
きっと明日は いい天気
(『虹』より 作詞・新沢としひこ 作曲・中川ひろたか)
と声と、口いっぱいあけて歌う姿を見ていたら、ポロッと泣いていまいそうなくらい、いい歌だ。
メロディーが覚えやすいことも手伝って、しょっちゅう口ずさむようになった。
今朝の空は、鮮やかな水色をしている。
絶好の洗濯物日和だ。
白いシーツを四枚洗い、二階のベランダに一気に干した。
ハタハタとシーツがゆれて、肌に触れるとそこだけヒンヤリして、しかしベランダの桟はとても熱くなっていて、夏が来たのだと思う。
甘夏と、キウイの皮を剥いて、タッパーに入れて冷やす。
きゅうりとハムを刻み、金糸卵を作り、生姜をすらなきゃ、おそうめんにしよう、氷あったかな、などと思っていると、電話が鳴った。
友人が、近くまで来たから寄っても良いかという。
勿論と答えて、来てもらった。
声の様子から、何か話したいことがあるのだろうとは思っていたけれど、案の定で、おそうめんを一緒にすすりながら、彼女の語る最近の仕事上の悩みを聞いていた。
「疲れちゃったなー」
と、いつも元気な彼女は言って、ぽろぽろと涙を流した。
最近、友人や、お付き合いのある人の中で、こんな悩みの言葉を立て続けに聞いた。
彼女もかと思って、けれども、決して同じ立場をきちんとは理解できず、想像だけで無責任にかける言葉もなくて、
「そっか」
などと、曖昧な返事しかできなかった。
ごめんなさい。
私たちは、いつだって、悩みは尽きず、次から次へと出てくるのかなと思う。
うまくいかないことが、驚くほど重なったり。
そろそろ前日の疲れで、体がだるくなったり。
側にいる人、子供のことが気にかかったり。
彼女が帰った後、流しで食器を洗いながら、そして洗剤の泡が排水溝に流れていくのを見ながら、でも、それでも流れに身を任せて、ぐしゃぐしゃになってしまう日はあっても、最後にはちゃんと、真っ直ぐ行きますようにと思いながら生きて行きたいなと思う。
全然うまくいかなくても、憂鬱な日があっても、生き死にに関わることでなかったら、なるべく誰かのせいにせずに、小さな楽しいことを見逃したくない。
そして、そんな時こそ、小説は本当に素晴らしい役割を果たしてくれる。
例えば、こんな小説。
隣家との境をつくっている長い木の塀の上を、小学五年生の一郎はひとりで行ったり来たりしていた。靴底の幅に足りない狭い場所を歩いてゆくことは、踏みはずさないよう気を使うことにだけ心がいっぱいになって、他のことを考えないで済むし、それに何かしらヒリヒリするような快さがある。すこし冒険をすれば、物置小屋の錆びたトタン屋根に飛移って、さらに母屋の二階建の瓦屋根にまで登ってゆくことができる。うんと冒険をすれば、塀の行き止まりにつづいて聳えている石崖を、割れ目を靴の先で探しながら上まで登ってゆくこともできる。
塀の上にいる一郎の耳のそばで、不意に法師蝉が鳴きだした。オーシツクツクと繰りかえしている鳴声で、夏休みがきたという気分が強くなりながら一郎は蝉の姿を探した。
(吉行淳之介「夏の休暇」 角川文庫版『子供の領分』より)
夏の休暇の始まりを書いているこの一節を読むだけで、私はすっと救われた気がするのだが…。
みんなの気分も、何かのスイッチで晴れたらいいな。
無責任の極みの一言だが、本当にそう思う。
などと書いていたら、町内会の集金と新聞の集金が立て続けに来て、あっついねーなんて話をしながらお支払いしようとしたら、お財布のお金が無かった。
仕方なくツッカケひっかけて、ちょっと待っててと、カラカラとコンビニに走る。
ああ、暑いな。
きっと明日は いい天気
きっと明日は いい天気
みんな、色々あるんだよな。
私も、くよくよせずに、がんばるよ。
夏が始まった六月の空のした、汗だくで走りながら、そう思った。
(編集部注:『子供の領分』は現在集英社文庫から発売されています)