「ひなね、前歯がグラグラしてるんだよ。
大人の歯がね、そのあとにはえるの。
おいもをほりに行ったから、おいもとどけるね。」
という、近所の子供からの突然の電話。
家の外から聞こえてきた、
「田中くーん。」
という何でもないような高い呼び声。
小学校で見かけた、机にほっぺをくっつけて、好きな女の子をうっとりと眺めているきれいな顔した男の子。
無邪気で、自分の心にまっすぐで、伝えたい思いに溢れている自然な子供たちの言動は、私の中をすぐにあたたかくしてしまう。
あの無邪気さを、ぽとりと落としてきたのはいつだったのか。
吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)で、主人公の中学生コペル君に、おじさんが書くメッセージの中に、こんな文がある。
君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない。そうして、どういう場合に、どういう事について、どんな感じを受けたか、それをよく考えてみるのだ。そうすると、ある時、ある所で、君がある感動を受けたという、繰りかえすことのない、ただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかってくる。――肝心なことは、世間の眼よりも何よりも、君自身がまず、人間の立派さがどこにあるか、それを本当に君の魂で知ることだ。――いいことをいいことだとし、悪いことを悪いことだとし、一つ一つ判断をしてゆくときにも、また、君がいいと判断したことをやってゆくときにも、いつでも、君の胸からわき出てくるいきいきとした感情に貫かれていなくてはいけない。
日々、ただ色鬼だとか、ただかくれんぼをして遊んでいるときに流れた、夢中という名の空気。
よくわからないながらも、芸術や大自然に触れて得た、色や音の感覚。
本物とはいかなるものなのか。本質とは一体どこにあるか。
それを考える時に幾度も思い返すのは、きらりと光るものを見出した瞬間のことだ。
だから子供たちには、良いものをたくさんたくさん見聞きして感じて動いて欲しいと思う。
ひととき、少しだけ、地元のいくつかの小学校へ通う図書館員をしていた。
その中で、一緒に本を読んだり、長いこと話をしたりした生徒から、とつぜんの手紙が届いた。
わたしのことを、覚えていますか?
また会えたら、すごーくうれしいです。
私もそのときが来たら、すごーく嬉しいと思う。
まだまだ私は立派な大人ではないけれど、彼らとふれる時は、なるたけ真剣に、なるたけ遊び心をもって、いっぱいの愛情を注ぎたい。さまざまな形で大人に問いかけてくる子供たちが、良いことを思い信じて選び歩ける大人になりますように。